DVJユニットのDIVよりActorsbookclubの総論テクストが到着

DVJユニットのDIVよりActorsbookclubの総論テクストが到着しました。


 

アクターズブッククラブ所感
身体の記録/記録の身体
Body of Record/Record of Body

アクターズブッククラブでは小林敏和が収集した俳優にまつわる書籍やVHSを閲覧、一部購入することができる。またゲストにVHS蒐集家のグッドガイビデオを迎え、コレクションVHSやリメイクVHSの販売なども行う。—
映画や演劇をはじめとするフィクションは、俳優の身体と言葉を通して形作られることは今更確認することでもないだろう。それはつまり俳優、演者自身の身体性、思想性も、”当人が介入を避けようとも”反映されてしまうことを意味する。

”されてしまう”

と若干消極的に記述した理由はいくつかある。そのことによって監督や脚本家や演出家が意図したイメージから逸脱してしまうということになる。しかし裏を返せば、彼らがイメージした人物や作品性を、予想し得ない方向へ複雑化、複合化する可能性を生み出すのも俳優の身体によってである。

映画表現をひとつのコミュニケーションモデルとして考えると、脚本家から監督へ、監督から俳優へと伝達を通して、意味的な飛躍を遂げていく。そう言った意味で映画は「平均的な、均質化された定説」を、そのまま誰かに伝えることは、映画としてのコミュニケーションの役割を果たしていない。

映画というコミュニケーションは、最終的に他ならないあなた自身の身体を通して完成する。あなたの身体を介して映画は飛躍する。アクターズブッククラブは、均質化した感想を確認し合う場ではない。アクターズブッククラブは、俳優の身体への理解を通して、あなた自身の身体感覚を発表する場として機能する。


さてVHSである。今回の展示においては俳優が出演する過去の記録媒体として展示されているだろうが、一歩踏み込んで「記録媒体の身体」として考えると、示唆的となるだろう。本来、劇作というものは劇場で人を集めて鑑賞されるものであった、それから紙に記録したり、語りとして伝達したり、蓄音機に記録したり、カメラでフィルムに残すようになった歴史がある、「記録」と言う行為が生まれて、情報に身体性、フィジカルが生まれた。

現代においてはクラウドサーバーと呼ばれる技術が生まれ、身体が喪失した、と思われるが、クラウドサーバーにもAmazonなどが管理する日立の冷蔵庫よりももっともっとでかいサーバーを一元管理している。つまりはデータは中央集権化している。

さて、今回の展示で最も印象的であったのがVHSコレクターの多くは出張という形で地方のヴィデオショップに赴き、時には店主に交渉し、店頭にないVHSがないかを伺い、VHSを入手するということであった。そこにはおそらくレンタル落ちのシールや傷、日焼けなどが残っているだろう。そして何より、そのVHSはどこで入手したか、店主はどんな人物か、という情報がさらに上書きされる。

さながらアンドロイドを探すデッカード、彼らは情報として鑑賞する、という目的を超えて、作品の身体を歴史作る行為を行なっているのだ。

わたしたちが健康診断をしたとき、血糖値、血圧、尿酸値詳細に調べたとしても、膝にあるやけどの後を数値化することはできない。いや、必要に迫られない限り、しない。数値化されないその日焼けや傷を説明することができるのは、説明しようと自律的に思い立つのは、わたしたち人間ぐらいのものなのだ。

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